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楠町の歴史

 

世紀 西暦 事項
6世紀?

この時代、河原田、川尻、塩浜、羽津、富田を連ねる線が海岸であり、楠はこの頃までは海中か海浜であった。


河原田丘陵

高岡山下が海岸線?
8世紀 この後、南川、本郷、北一色、小倉、五味塚とデルタ地帯が造成され耕地として開発されていった。五味塚は、鈴鹿川の派川が出来ることで南北に分かれたと考えられる。
14世紀

1358年
 

1361年

楠木正成の妾腹の子と伝わる楠十郎正信が、信州より来て本郷の地に楠城を築く。
臨済宗妙心寺派の正覚寺が、楠城主の菩提寺として開山された。

楠城跡

正覚寺
15世紀

江川入り江

この頃、楠は伊勢神宮の認める伊勢湾の本警固5カ所の一つで、南伊勢と北伊勢の中継港として重要な港であった。
港の入り江は現在の江川のことで、かつては幅広く水量豊富で奥深い入り江として、伊勢湾への出口、船溜まりの役割を果たしていた。
(本警固とは通行船の安全を図り、通行料を徴収する港で海の関所のこと)

16世紀 1567年
1573年
 
1584年
織田信長、北伊勢へ侵攻、楠城降伏、魁を申し受ける。
織田信長、長島一向一揆攻めのおり、大湊より出船を命じるがこのおり中継地として楠が名指しされている。
信長亡き後、織田信雄配下となっていた楠家は、豊臣秀吉に攻められ加賀野井城で戦死。楠家が絶えることとなった。

楠城跡 楠村神社

正覚寺 楠十郎墓碑
17世紀 1601年
 
 
 
1644年頃

竜宮さんの一本松

江戸幕府になり、本田平八郎が桑名藩初代藩主となり、楠を含む三重郡が支配下となる。かくして楠は、江戸幕藩体制下、桑名藩の支配を受けることになった。
藩主松平定綱公は、楠を巡行のおり南五味塚の「竜宮さん」に立ち寄り、一本の松をお手植えになった。以後、地元の人に「一本松」と親しまれた。

19世紀 1871年
 
1889年
廃藩置県にともない、楠7ケ村が誕生した。本郷村、南川村、南五味塚村、北五味塚村、吉崎新田、小倉村、北一色村7ケ村が合併して楠村誕生。
初代村長富田光太郎は、自宅を小学校にして2階に村役場をおき楠村を指導。楠村農会、楠郵便局、楠小学校落成等に尽力した。
20世紀 1905年
 
1922年
二代目村長堤要蔵は、自然災害の多い時代に奮闘され、消防団、青年団、産業組合等の設立に尽力した。
三代目村長岡田武兵衛は、楠村の近代化のため「工業立村」を提唱。
四日市港の整備、鉄道の充実、工業用水、工業用地に恵まれた土地柄を活かして東亜紡、東洋紡、三重製網、宝酒造の4工場の誘致に成功した。

当時の東亜紡楠工場

吉崎に海水浴場もできた

 

1940年
 
1947年

楠町になり、引き続き岡田武兵衛が初代町長となった。軍事体制、戦時体制下のつらいかじ取りとなった。
二代目町長服部栄門は、戦後復興をまかされ、前町長の遺産を活かして4工場を完全復活させることで、昭和25年には小さな町楠町が県下での工業出荷額が四日市市に次いで第2位であり、県に占める割合も1割程度となり、県下に楠町の名前を知らしめたのであった。


岡田邸跡 楠歴史民俗資料館

岡田武兵衛胸像
楠地区市民センター前
 以降 楠は、鈴鹿川と伊勢湾に囲まれ、水に恵まれた地形を生かし、多方面の殖産を行ってきたので紹介したい。
・ まず、明治末期に始まったうなぎ養殖は、昭和31年に県下最大の水揚げとなり県の約1/3を占めたこともあった。今は吉崎地区に養殖池の名残があるのみ。
・ つぎに昭和30年、40年代に始まったのが、伊勢湾北部に位置することからはじまった黒海苔の生産である。冬の楠海岸の海面に海苔摘み取りの舟が何艘も浮かんでいたものである。楠産海苔は品質の良さで知られいる。
・ また、近年はハナグリ蓄養に乗り出した。海外から輸入した成貝を伊勢湾の海水に1週間ほどなじませる蓄養の出荷量では、輸入ハマグリの半分を占めている。
・ 楠の酒造りは、18世紀から始まったことが分かっており、明治期には生産高も県下随一となり、「楠の焼酎」として全国に知られるようになった。 ここに西に「灘の酒」、東に「楠の焼酎」と謳われ、全国に名声を高めたのである。現在は、宮崎本店が酒造りを受け継ぎ、焼酎は関東圏主体に、清酒は県内主体に精力的に取り組んでいる。

うなぎ養殖池跡

黒のり摘み取り風景

ハマグリ畜養場

宮﨑本店酒蔵群

 

 

問い合わせ先

楠地区団体事務局
〒510-0103 四日市市楠町北五味塚2060-72
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